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Yoichi Ochiai

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質量への憧憬

〜前計算機自然のパースペクティブ〜

Sehnsucht nach Masse 2019

質量への憧憬

Outline

写真を撮ること, 撮り続けることが好きだ.メディアアートとして表現することで作家として消し去ろうとした一人称が,写真やイメージを集合させることで浮かび上がる.視点の集合と離散を通じて, 不可逆な時間を生きることを自覚させられる.

瞬間と瞬間が物質性を伴って記録され,その展示自体も風景にされて行く.そういった プロセスを感じながら過去を生み出して行くことが好きだ.

僕が写真を撮るとき, アナログな身体と光の中でそこにあるデジタルを研ぎ澄ます.デジタルでしか見えない世界認識で,失われつつあるものを切り取り,手触りを与えるプロセスを通じ, 時間と空間の解像度との対話をしている.

落 合 陽 一

Artist Statement

人が留められないものはなんだろうか.共有できないものはなんだろうか.時間,空間,瞬間,すべては失われていく,ありありとした解像度を体験し続けることは生きることだ.生きることはそれらを忘却し失い続けていくことかもしれない.過去にしてしまう価値を閉じ込めたいと思ったときに人は芸術作品やメディア装置を手に取る.

物質になることを嫌がる情報を僕らは社会彫刻に作り変えることもある.人が金,法人,宗教,法律,共同体を作る動機は留めたいこころにあるのかもしれない.メディアアートに惹かれた二つの気持ちは分解できる.だれも見たことがないものを見たいこと,刹那で失われるなにかを留めておきたい体験の物象化だ.煙,泡,波面,プラズマ,生体,一瞬の運動や宙に存在するその刹那性のようなものだ.瞬間の美しさを失えば,それは誰も見れないものになってしまう.その上に沢山のコンテクストを載せようと思えばできる.メディア装置の批評性や社会性の中での機能をはめるパズルゲームやなにかを引き継ぐビジュアルデザインを繰り返すことによって一定の所有欲や連帯感を演出しながら生きつづけることは出来るだろう.それは刹那の体験性を,この生の消失を騙しながら誤魔化しながら鈍い解像感の中に留めていく無間地獄のようだ.

メディア装置の表現が好きな理由は個の消失と存在を繰り返すある種の抽象性にある.言語やビジュアルによる表現から分離し,コンテンツを切り離して存在する美を探す活動の中で自分は自然と一体化できる.観察し,観察される立場から機能的な主体を取り戻し追体験させるメタ機能になることができる.それは,パズルゲームを超えたものに思えたのだ.

Date
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Venue
amana square(sessionhall/IMA gallery/IMAcafe)
Organizer
Yoichi Ochiai / amana inc.  
Web Site
https://shitsuryou2019.jp