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落合陽一 × 若佐慎一
Guwa Guwa Null Null: Circumscribing the Invisible Borderline From the Forest
Yoichi Ochiai x Shinichi Wakasa
ポストコロナの生活の変化は、定在遊牧時代ともいうべき状態に近づき、デジタルと身体の垣根はますます薄れていき、我々が生活や文化の中で憩う「豊かさ」の再考を我々に求めているように思う。この変化は狩猟採集社会、農耕工業社会、情報社会と変化してきた我々人類の変遷の中で定在遊牧性社会という新しい時代区分に差し掛かっているように見える。これは、社会それそのものの基盤がよりソリッドステートに近づき可動部分が少なくなり、人々の営みが生じる環境負荷についても明示的にトラッキングされる。その様は遊牧民が環境負荷に応じて彷徨う牧畜の群れとともに変遷することによって可視化されるように、我々もまた各々の環境負荷に明示的になりながら、この遍在する社会を生きることに繋がっている。その思考の連続の中で、改めて森や木の文化、精霊、神話、目に見えない・聞こえない、感じられないものを探していくことは信仰というよりは民藝的な倫理、むしろ生活の営みや規範を再認識し、自らが立脚する歴史的な文脈を理解することで生きることそれそのものに向かうための気力を養うことに近づいている。そこで再考される豊かさとは物質的・資本的なものに限らず,味わい深いコンテクストを理解したり、何気ない日常の調度品を眺めることの中に憩いや精神的充足を感じるような、時間と空間をより重層的に感じることによる心の豊かさを志向するものであろう。
「ぐわぐわぬるぬる : 森からいづる不可視な境界線を廻って」と題されたこの展覧会は、定在遊牧性から新たな豊かさを指向するコンテクストをもとに、より身体的でより非言語的な可能性へ、民藝的な展開を円空仏や廃品の再利用などを通じて行いながら、メディアとデータ、計算機と自然、木工に代表されるような狩猟採集時代の豊かさへのオマージュを通じて、身体性とグルーヴを描き出そうとしている。哲学者のイヴァンイリイチが1970年代にコンヴィヴィアリティを参照した際に悦な体験というものの宴会的性質を排除して考えていたが、民藝美は再び豊かな悦な体験を通じてリミックスされ,身体性をより喚起する方向へと変化すべきなのではないかと我々は考えている。この展覧会を通じて、身体と遍在性の関係、分断の超越、サステイナビリティと伝統や文化とのマリアージュを体感してほしい。見えぬもの、しかし感じられるもの、表現するための単語はないが、ひょっとしたら擬音語や擬態語のオノマトペがその身体感覚を表象できるものなのかもしれない。
落合陽一